野球とは不平等なスポーツ
平等って何か考えたことはありますか?
平等とは、「同じことをする」、「同じことが与えられる」、「同じである」ということを意味しているわけではりません。
これは皆が暗黙の了解で認識しているものの、いったん口に出して言うと、上記のような使い方をしてしまうため、勘違いしてしまう場面も多々あると思います。
もし上記のような内容を「平等」とするならば、野球はまったく平等なスポーツではありません。
これは、他のスポーツも、一般社会に関しても同じことが言えると思います。
野球で言えば、試合に常に出ている「レギュラー」とそうでない「控え選手」が存在し、もっと言えばベンチにすら入ることができない選手が存在します。
さらにそれらの選手は、同じ練習メニューをすることもありません。
当然ながら「レギュラー」選手が優遇され、「控え選手」や「ベンチ外の選手」は、野球と言える練習はできないのに、過酷な基礎トレーニングだけは同等に行っているのが世の常です。
この状況のどこが「平等」なのでしょうか。
早く気づかないと手遅れになる
何よりも早く「平等」ではないことを理解し、対策を講じる必要があります。
試合に出場できない「控え選手」は、試合に出られるように、「レギュラー選手」とは違う様々な工夫が必要でしょう。
練習時間も同じであるはずがありません。
レギュラーに比べ、プレイできる時間が短いなら「考える」時間を増やし、レギュラー選手の弱点を見つけ、その弱点につけ込むような選手になるという姑息にもとられかけない方法をとる必要があります。
これぐらいのことを考えて挑まなければ、「レギュラー選手」と「控え選手」の壁は相当厚いということに気づかなければなりません。
練習時間も、単純に長くするなら誰でもできます。
時間内に過密な練習を行うなどの思索が必要でしょう。
また監督やスタッフの人たちによく見えるように、練習時間を長めにやっている風にアピールしてみることも重要です。
平等とはとても抽象的な言葉であり、また、解釈によってたくさんの解釈の仕方があると思います。
しかし、レギュラーになりたいと思うのであれば、レギュラーと同じ練習しかできないのであれば、それは「不平等」と言えるでしょう。
「レギュラー選手」ではない「控え選手」は、「レギュラー」になるために、「異なった練習方法」、「異なった練習時間」、「異なった練習環境」を選択し、「レギュラー」に勝ち進んでいく機会を与えられることが、本当の「平等」ではないでしょう。
▼「MONOBUN®」の詳細はコチラ▼